(写真提供:小料理 たちより)
伝説によれば、慈覚大師円仁(794年―864年)が貞観5年(863年、山寺立石寺を開山した3年後)の奥羽地方巡の折に今の赤倉温泉にあたる地域を訪れた。
その際、地元の村人が小国川の水で傷を負った馬を癒している姿を見た円仁が、手にした「錫杖(しゃくじょう)」で川底を突くと石の間から薬湯が湧き出たと言われる。
鉱泉史では、享保6年(1721年)に記載記録がある。
日山湯は、文政4年(1821年)に発見されている。
(昭和5年頃の赤倉温泉 写真提供:最上町役場)
時を経て、鎌倉時代の山岳修験隆盛期、当地方と宮城県境付近にそびえる翁山(おきなさん)は信仰の山として栄えた。
当時、行者たちは翁山に源流を発する小国川を聖なる川とあがめ、円仁ゆかりのいで湯で身を清めた後、川の水を仏に供えて翁山へ向う習わしがあった。
そこで仏事に用いる水を意味する仏教語の『閼伽(あか)』が地名にも反映し、後に『赤』の一文字に替えたという。
語尾の『倉』は、地名辞典によると『蔵』と同意語とされ、元の意味は危険な岩場を指すと載る。
当地も古くは険しい河岸段丘の地形で、いつの世にか『赤倉』の地名が定着したらしい。
(昭和48年頃の赤倉温泉 写真提供:最上町役場)
さらに江戸期の『新庄領村鑑(むらかがみ)』という文書には、『小国日向守(おぐにひゅうがのかみ)』家中、富沢の枝郷の赤倉村に『疝気(せんき)』、いわゆる腹痛に効く温泉が、川端に小屋掛けしてある。
そこは尾花沢へ至る峠筋にあり、旅人が立ち寄る事も多い。
湯の中には、人の『垢(あか)』を食らう小さな虫がいて、それを“垢食い虫(あかくらいむし)”と呼んだことから『赤倉』の字を当てたと記され、なんとも信じがたい地名の起こりである。
最上町の郷土史に詳しい大場善男さんは
「円仁の開湯説は定かではないが、当地に古くから温泉の守護仏として、天台宗本尊の『薬師三尊』が祭られている。昔は行者たちが水を供えて拝したであろうし、『閼伽』を語源に地名が誕生したのは確かと思う。
一方の江戸期の村鑑の説は、湯治客が増え、湯の汚れが目立つことから『垢食らう虫』に例えたと推測出来る」
と語る。
(山形新聞 平成17年1月9日記事より抜粋)